「ヒラの身分」では思いつかなかったらしい「ジョブ型雇用」の日本経済へのメリット

 巷に溢れる「ジョブ型雇用」の論は、民間企業からスピンアウトした時に「ヒラ」以上にはなれなかった人の話が多く「ヒラの願望」に迎合した話?と前回のブログで書いた。

 しかし実は「ジョブ型雇用」という考え方は、沈滞が続く日本経済からの脱却に関する非常に大きなヒントがある。

 

  (以下、「サイコロ」とは「立方体」の意味で用いた)

 

 「ジョブ型雇用」以前の問題として、「ジョブ」そのものがある。アメリカの企業では、この「ジョブが明確」、より適切に言うなら「ジョブが意識されている度合いが日本より明確」なのだ。例示として「ジョブをかたまりとして考え、これをサイコロのような立体的に組み上げる」とか、「積み木」になぞらえられる。

 

 会社の業務は「サイコロ」や「積み木」を組み合わせて積み上げて構成されるという面がある。時代やマーケットの変化ほかでこれらを並べ替え、時にはある「サイコロ」を捨てて別の「サイコロ」を外から加え、業務遂行の仕方を変える。いわゆる「リストラ(組み替え)」だ。

 アメリカでは雇用市場は日本よりはるかに流動的で、捨てられた「サイコロ」でも日本よりはるかに容易に、別の職場で「サイコロ」として採用される。

 ちなみにこの「サイコロ性」が最も意識されるのは、「求人募集時」だ。ここでは例えば「経理課員として固定資産勘定の担当者を求める。経験5年以上」として募集される。非常に「ジョブ型雇用」的だ。

 

 日本で「ジョブ型雇用」を性急に切り替えるには二つの問題がありそうだ。

 一つは先の「サイコロ」の二次市場が未成熟な事だ。「ジョブ型雇用」から外された時に転職時の受け皿が容易に見つからない。さらに会社側とは圧倒的な情報の非対称性があり、「ジョブ型雇用」となった人間はそのうち極端な窮地に陥ることになるだろう。「ジョブ型雇用」に憧れている「ヒラ」の人達はこの当たり前の事実をよく考えた方がいい。

 

 もう一つは日本企業の業務遂行のありかただ。日本では経営者や管理職は「ヒラの努力」に甘えすぎている。経営者の指示が曖昧で中途半端でも、中間管理職やヒラの努力で実現してしまう。上位の役職からの指示が曖昧な場合、「ジョブ型」の組織では曖昧な指示では組織の各所で動きが詰まり、動かなくなる。

 日本では組織内の各人が各持ち場で各所へのインフォーマルなネットワークも用いて調整がされて、あいまいな指示を肉付けしている。

 しかしこのようなシステムで業務が遂行されている事こそが、日本を新しい時代に適合・変革させる為の最大の障害なのだ。日本の経営者には下の人間が「ただちに実施できる形で変革を具体的に指示できる能力」が概して低く、唱えるのは多くの場合「お題目だけ」だ。変革を実現する場合は中間管理職以下の努力に頼るしかない。これでは経営者による「変革」は実現のしようがない。

 

 経営者の能力を測るのは難しいが、国際標準に照らせば日本の経営者は概して「学歴」が低い人が多い。大部分が「大卒」止まりであり、「大卒」というのは国際標準としては最低レベルだ。MBAでのような厳しい鍛えられかたがされてない訳で、国際標準としては軽んじられる。自分の会社で行われている各業務を「神輿に乗る」形で見る能力しかない。

 

 日本では経営者は自分の会社の業務がどのように処理されているのか、実態を知らなくても経営が出来てしまう。もちろんこれはある程度までアメリカの企業でも同じなのだが、「どの程度か」とか「要所の押さえ方」という点で日本の経営者はアメリカの経営者に大きく見劣りし、自分が体験した業務以外の事への理解・分析能力は低く、従って適切な「サイコロ」の組み替えを迅速に出来ないのではないかと思う。

 

 約30年にわたる日本経済の沈滞の原因は、効率化への変革の対応に失敗してきとする意見がある。

 これが正しいとするなら、諸悪の根源は「日本企業の経営者たち」の時代に合わない無能力さだ。近年、この経営者職層の報酬がますます高くなっている事は皮肉でしかない。