今では随分と有名になった「筑駒(教駒・筑波大附属駒場)の田んぼ」は、中一・高一の時の必修科目である農学の実習だった。私は4月に高校から入学したので、よく訳が分からないまますぐに田植えの時期となった。場所は現在の駒場野公園内、「ケルネル田んぼ」と呼ばれる由緒ある田んぼなのだが、そんな事を言われても高校一年生に意味や意義が分かるわけがない。
泥にまみれて田植えをすると言うのは当時の都会っ子の我々には大変不人気な話だった。おまけに田んぼの土は「泥」というより「泥+ヘドロ」のように思えた。
というのも田んぼへの用水は隣の池から引いているのだが、この池には周辺の家庭からの雑排水も流れ込んでいるとしか思えず、従って「ヘドロ」が混じるのだった。池には大きなコイが何匹もいて、水質汚濁が進み「このコイたちが死ねば田植えもなくなる」との話が信じられていた。
一年上の先輩が化学室からカリウムの巨大な塊を持ちだしてこの池に投げ込んだ。大きな水柱と共に火柱も上がったとの事だが、コイは一匹も死ななかった。
当時は私鉄各社もストライキを行う時代だった。学校の最寄りである井の頭線が止まると学校は休校になり、そしてその日がたまたま田植えの日だった。前日、深夜までラジオで京王電鉄(井の頭線)の労使が妥結したかどうかを聞き入ったのだが、3時過ぎになっても妥結しない。
翌日の朝、よっしゃという気分で起きると京王電鉄の労使は未明の4時だか5時だかに妥結していて井の頭線は運行、従って休校はなく、予定通り泥まみれになって田植えをする事になった。
井の頭線は駒場の田んぼに沿って、適度に見上げる高さを走っていた。我々は京王帝都の労働組合がもっと強硬に経営側と争ってストに突入すれば今日の田植えは流れたのにとうらみ、田んぼの中から泥まみれの姿で井の頭線の電車に向って「経営打倒」「軟弱・労組!」とののしったのだった。「経営打倒」というのは労働組合は経営側(会社側・使用者側)を打倒すべく戦え、「軟弱」というのはこの頃によく用いられた、政治上の議論の際に相手を罵倒する時に使う言葉だ。
さてこの田んぼの「反収」だが、先生によると駒場の田んぼでは一粒のもみから5粒の収穫となるが、当時の普通の農家の田んぼでは200粒が取れ、「農業賞」を受賞するような篤農家では10,000粒が取れると聞いた覚えがある。弥生時代の初期は我々程度の反収だったのではないだろうか。
取れたお米は赤飯とするのだがどう考えても収量が少なく、現役の後輩たちは肥料をもっと撒き、草取りもきちんと行って、もう少し盛大に赤飯を配れるように頑張ってもらいたい。
一学期末の農学の試験の二問目は「田植えの日は何月何日か」だった。農学の授業は水曜日だったので、試験用紙の裏にカレンダーを作って何日だったのか当てようとしたのだが、外れた。
綺麗ごとを言えば、今頃になって思うにあの「田んぼ」の経験は代えがたいものだった。当時の自分たちは勉強にしても政治活動にしても、どうしても頭でっかちになりがちだったからだ。
(関連ブログ)「筑駒(教駒)」では学校の正しい校名を教わっていなかった
筑駒(教駒)で私が受けた授業はこんなだった:『英語』(ハシラ)