世界の不動産投資資金の流れ(5)

 世界の不動産投資資金における「東京」の位置づけについて、2000年代以降のことはよく知られていると思われるので、古い話をご紹介したい。

 

 日本人の海外不動産投資が自由化されたのは1971年7月だ。しかし直後の8月15日、ニクソン大統領の声明によるドルショックでそれまでの固定レートの「1$=360円」が崩れ、年末には「308円」となってしまった。

 これはもし20億円をドルに換えてアメリカの不動産に投資していたら、新レートでは17.1億円に減ってしまったことになる。投資先の国によってはその後、もっと激しく減価した。当時は何がなんだかわからなかったと伝え聞く。

 

 2年後の1973年にオイルショックが発生、投資済みの海外の不動産は塩漬けにされ、日本全体が二つのショックによる非常に長く重苦しいトンネルに入った。

 

 苦闘が続き日本人が自信喪失する中、6年後の1979年、三井不動産がパリの凱旋門に面するビルとロサンジェルスの中心部の超高層ビルとに立て続けに超巨額の買収をした。このニュースは大変な明るい話題となり、苦しかったトンネルも出口が近いと日本人は知ったのだった。

 

 その後、海外不動産投資をする日本の会社が徐々に増え、1980年代後半のバブル時には猛烈な量の海外不動産投資が行われた。

 当時、アメリカ人は日本人がオフィスビルを「収益性」ではなく「単価×床面積で買う事」を知り驚いた。土地が所有権であるビルを借地権のビルよりも非常に強く好む事も不思議がられた。

 

 1990年代入りするとバブルが崩壊、国内外の不動産投資は一気に冷えた。金融業各社の行き詰まりは1990年代後半には糊塗できないものになる。

 

 「不動産を保有しながら金融的に行き詰った会社」は、アメリカ的な手法では絶好の投資機会となる。GE系GEキャピタルが上陸、1999年に経営難に陥っていた東邦生命から、不動産を一括取得した。

 海外の投資資金が日本の不動産に本格的に「着地」したのは、これが初めてだ。

 不動産を金融業的に処理するのは知っているつもりだった海外畑の人間も、本場のプレイは一味違って見えた。

 

 週刊住宅 2021年3月22日号掲載