「オリエンタルランド」という社名を名付けたのは船橋ヘルスセンターの丹澤善利氏

 「この人がいなければ東京ディズニーランドは実現しなかった」という人を6人に絞ってみた。

 

 高橋政友氏、加賀見俊夫氏(以上、オリエンタルランド)、江戸英雄氏、南川順一氏(以上、三井不動産)、川崎千春氏(京成電鉄)、丹澤善利氏(朝日土地興業)だ。

 

 最初の主役は丹澤善利氏(朝日土地興業)である。昭和中期に一世を風靡した「船橋ヘルスセンター」で成功した毀誉褒貶の激しい稀代の実業家だ。

 彼は千葉県船橋地先の埋め立て事業で成功していた。浦安地先でも遠浅の広大な海を埋め立てて「東洋一の遊園地を作る」として千葉県を説得、そのための会社を作り「オリエンタルランド」という社名にした。昭和35年(1960年)のことだ。(*追記2021.2.23へ)

 「東洋一」、これがたぶん丹澤氏がつけた同社の社名の由来と考えて間違いはないだろう。

 

 この巨大遊園地案について「ディズニーランド」というビジョンを明確に持ったのは、川崎千春氏(京成電鉄)だ。川崎千春氏と丹澤善利氏は埋め立て事業に強かった江戸英雄氏(三井不動産)にも参画を求めた。

 江戸英雄氏は当初、この話には全く乗り気でなく幾度も断っていたのだが、丹澤善利氏の執拗な懇請に根負けして参加を決意した(追記2022.2.15)。よってオリエンタルランドの埋め立て事業は朝日土地興業と京成電鉄と三井不動産の三社が株主となってスタートする。

 

 ところがここから先、東京ディズニーランド実現までは非常に複雑怪奇な道のりをたどる。中でも丹澤善利氏がいくつかの疑獄事件の中心的人物として信用を失い朝日土地興業が倒産、初期の段階でこの事業から脱落してしまったことと、いざ巨額の本体建設工事に着工という段階で川崎千春氏が率いる旗振り役だった京成電鉄が経営難に陥ってしまい、運輸省により東京ディズニーランド事業への関与を止めさせられたことは想定外の大事件だった。

 

 その結果、昭和50年代中盤、東京ディズニーランドは三井不動産単独の超巨額の信用供与無くしては前に進まない状態に陥った。

 三井不動産社内では激論が起きた。「遊園地事業」は極端な水物と見られていたのだ。

 会長の江戸英雄氏は推進派、社長の坪井東氏は反対派で、このような中で江戸英雄氏の意を受けて(=社長の意に反して)、ディズニーランド実現を進めたのが三井不動産の担当部長だった南川順一氏だ。

 

 この時に南川順一氏が一歩かじ取りを間違えれば三井不動産社内の反対派を抑えきれず、ディズニーランド計画は空中分解していた。

 

 それはともかくオリエンタルランドの高橋政友氏は父君が台湾総督という大変な家柄であり、また問題なく東京ディズニーランド実現の最大の功労者で、浪人中の身から三井不動産の江戸英雄氏の引きでオリエンタルランドのトップとなった(追記2021.7.9へ)。当初の任務は埋め立て事業だった。

 豪胆にして剛腹、支配会社の三井不動産に頭を下げないどころか各所で社長の坪井東氏氏に対する強烈な悪口を繰り返し公言、感情を逆なでにする。(追記2022.2.7)

 

 高橋政友氏の奔放な坪井氏への悪口の公言は、あることをきっかけに後の昭和60年代に江戸英雄氏から「これを最後にして、もう坪井君の悪口は言うな」と言われるまで続いた。高橋政友氏にとって江戸英雄氏は頭が上がらない親分だったので、この一件以降、彼は坪井東氏の悪口は一切公言しなくなった。

 

(ちなみに前記の『あること』とは朝日新聞から高橋氏あてにあったビジネス口述筆記のオファーだ。高橋氏は江戸氏に、『坪井氏の悪口を思い存分言う』と断りに来た。江戸氏は『君の事だから言うなと言っても言うだろうから今回は止めない。しかしこれを最後に・・』としたのだった。高橋氏は坪井東氏への悪口をたっぷり筆記記事にしたためたのち、江戸氏の命に従った。

 これだけが理由という話ではないが、以降三井不動産はオリエンタルランドの新規上場に積極的に協力するなど、両社の関係は正常化へ向かった。)

 

 このように着工に向けて極度に難しい局面が続く中、オリエンタルランドが三井不動産との関係を何とか維持できたのは、同社の現会長である加賀見俊夫氏の功績だ。

 加賀見氏は常人ならとっくに投げ出す幾つもの局面で我慢と自重を重ね、各所を粘り強く調整し、決断し、プラス常人には御しがたいキャラである高橋政友氏を親分として慕い、尊敬しながらも上手に誘導していた。

 オリエンタルランドという会社にとって、高橋政友氏と加賀見俊夫氏はセットにして語らなければいけない存在だった。

 

 上記6人に追加して3人をあげれば、千葉県の川上紀一知事と沼田武副知事、日本興業銀行の菅谷隆介副頭取があげられる。

(以上の話は「東京ディズニーランド」の話であり、「東京ディズニーシー」は全く異なるストーリーで誕生するにいたっている。)(追記2022.2.17)

 

 日本人に新たな幸せの形を提供するようになったこのビッグプロジェクトは、奇跡のような巡りあわせで実現したのだ。

 

(*追記2021.2.23) 戦後、対岸の神奈川県が湾岸をいち早く工業化する事に成功したが千葉県側は長らく農業と漁業が中心の貧乏県のままだった。千葉県には資金がないため、民間が湾岸部の埋め立て工事費を立て替え、県は完成した埋め立て地の一部を払い下げる事で工事代金を相殺、民間は払い下げで得た土地を工場建設用として重厚長大の製造業を中心に売却するー三井不動産の江戸英雄氏は来訪した千葉県副知事からこのような枠組みの打診を受けた時に、協力するとその場で答えた。この枠組みを重ねる事で今の「京葉工業地帯」が誕生、千葉県は貧乏県から一躍、先進的な県へと飛躍した。しかし丹沢善利氏が浦安地先での埋め立てを構想した頃には、千葉県は工場はもう十分なので「レジャー施設を」と考えるようになり、「東洋一の遊園地」がここでの埋め立ての条件となった。

 江戸英雄氏が浦安地先の巨大埋め立て事業への参加を当初は断り続けていた理由の一つに、昔の貧乏県だった頃の千葉県は民間へ「お願いします」という姿勢だったが、この頃には民間に対し「高い態度」を取るようになったこともあるとされる。

 

(追記2021.2.24) 「高い態度」というのはたぶん茨城弁であり、標準語では「大きな態度を取る」「自分が一相手より段高い所にいるかのような態度を取る」というニュアンスだと理解した。

 

(追記2021.7.9) 江戸英雄氏の依頼で高橋政友氏を江戸氏へ紹介したのは、江戸氏と水戸高の同窓である岡崎英城代議士だった。江戸氏はこの事業の最大の難関は「地元との漁業交渉」でこれには「何よりも酒に強い人間が必要だ」と考え、高橋政友氏がすこぶる酒に強い点を高く評価したとしている。しかしこれは一面の真実ではあろうが、江戸氏の諧謔とも解すべきだろう。さもなくば埋め立て事業の要員だった高橋氏をそのままディズニー事業へ向けたはずがない。

 実際、高橋政友氏が様々な局面で発揮した経営者としての異能な傑出ぶりには驚嘆すべきものがあり、これらの諸問題は酒を飲めば解決するような次元の問題とは隔絶していた。だいいち、酒を飲むだけで「夢の王国」が実現するはずがないのは自明だ。傑出した経営者にはいろいろなタイプの人があり、高橋政友氏はまぎれもなくその中の一人であった。一方、彼と激しく対立した坪井東氏(勲一等)も明らかに傑出した経営者だった。かかわる者全員を丸め込んで飲んでしまった江戸英雄氏(勲一等)に至っては怪物のような名経営者だったのだ。結局、夢か奇跡のような巡り合わせで『夢の王国』は実現した。きっとティンカーベルの魔法の粉の助けもどこかで借りていたのだろう。

 

(追記2022.2.7)

 高橋政友氏(オリエンタルランド)と坪井東氏(三井不動産)は共に相手への批判をマスコミ上でも繰り広げた。インタビューの言の端を大きく書かれる事も多く、マスコミには恰好のネタだった。

 当人以外は地下鉄の週刊誌の中づり広告で記事を突然知るわけで、頭上をはるかに飛び越えてトップ同士が互いに一方的に撃ち放すことから、これは「大陸間弾道ミサイル」と呼ばれていた。これが発射されると両社の担当同士はすぐに連絡しあいこれが毎度の「大陸間弾道ミサイル」に過ぎず、会社としては方針変更が特にあったわけではないと互いに確認、数日後に飲み会をして互いの社内のもう少し踏み込んだ状況を交換しあうのだった。

 ディズニーランドが大人気になった後も、坪井氏は意地でもディズニーランドには行けなかった。しかし親戚の孫子供女性陣から突き上げられ、とうとう一族郎党18名で行く事になった。

 本来ならこの訪問はオリエンタルランドの秘書部に伝えられ、しかるべき対応がされるべき記念碑的な訪問だったのだが、三井不動産の秘書部は三井不動産からオリエンタルランドに出向している人間に連絡、現場レベルの手配により当日の18人様連れは滞りなく楽しめた模様だった。

 坪井氏がディズニーランドに来たという話は高橋政友氏には事後報告となり、「(坪井氏をディズニーランドに)入れたのか」と、不満をもらしたと伝わっている。オフィシャルな訪問にしていたら何が起こっていたか分からなかった訳で、両社の担当レベルはほっとした。(追記2022.2.20)

 

(追記2022.2.15)江戸英雄氏と丹澤善利氏は自宅が近く、丹澤氏は毎日のように朝晩、江戸氏の自宅を訪れて埋め立ておよび遊園地事業への参加を懇請、特に朝は江戸氏が会社へ行くために自宅を出なくてはいけない時間になっても丹澤氏は立ち去ろうとせず、これが続いて江戸氏はとうとう根負けして事業参加する事になった。(追記2022.3.1)

 

(追記2022.2.20)東京ディズニーランドが順調に推移して第二テーマパークが検討され始めた当時、オリエンタルランドの社長は興銀出身の森光明氏だった。森氏が提案したのは米ディズニー社の推すMGMの映画を軸としたものだった。しかしどのような計算をしても赤字で、森氏もこの事業は赤字になると提案者自らがいう不思議な案だった。

 この頃、同社最大の実力者であるべき高橋政友氏は奥様の病状が悪化し看病に専念、経営にはあまり関与しない状態になっていた。奥様が亡くなられた時の同氏の気落ちぶりは三井不動産にも伝わってきた。奥様が同氏にとって、あるいは埋め立てに始まる本事業の初期段階でいかに重要な存在であったかは伝説として聞いており、心からの衷心を捧げた。

ところが奥様が亡くなると高橋氏は会社に来るようになり、経営意欲がまたふつふつと沸いてきた。そしてMGMの映画関連の物を軸にした第二テーマパークの森社長の案をあっという間に潰した。これに代わって加賀見俊夫氏が中心となって実現したのが、後のディズニーシーである。

  

  (追記2022.2.20)高橋社長と坪井社長の関係はまるで幼稚園児の砂場の陣取りでの喧嘩に似ていたが、真剣さの度合いも幼稚園児以上だった。もし江戸氏が庇えないような経営ミスを高橋氏がすれば、支配株主である坪井氏により高橋氏は社長を更迭されてしまう。高橋氏の経営は常に極限的に厳しい監視状態におかれていた。一方、坪井氏は社長とはいえディズニーランド推進派の江戸氏が実力会長として上に存在、牽制を受けていた。このような中で江戸氏の意を受けて(=社長の意に反して)三井不動産側で事業を前に進めたのが冒頭にあげた当時の担当部長の南川順一氏である。この問題は部下に任せたり相談できるような問題ではなく、部員たちが多くいる部の部長の席に座っている事すらも苦しく、南川氏は部屋を出て会社の地下にあった喫茶店に悩みと安らぎの場を求めた。この喫茶店はガラスを通して廊下から内部が見えた。彼の立場の苦しさを知る人は会社でも少なく、現職の部長であるというのにいつもこの喫茶店で南川氏が長時間たばこをふかしている事を不思議がる人間は多かった。

 オリエンタルランド側でこの難局を引き受けたのはたぶん加賀見俊夫氏だったと想像する。同氏は京成電鉄から出向し一貫して高橋政友氏に仕えていた。同氏は第二テーマパークであるディズニーシー実現の功績で知られるが、ディズニーランドの実現でも大変な貢献をされた。オリエンタルランドは中途採用の混成部隊で組織的に弱体、そこへ三井不動産のトップ間に起因する矛盾がぶつけられる。加賀見氏が苦々しく、あるいは嫌な思いをしたことがないはずがない。同氏が耐えて自重し調整し、そして親分の高橋政友氏を誘導し、同社は難局をいくども乗り越えたのだった。

 

(追記2022.2.22)

 ディズニーランドの本体工事は本事業で最大とも言える難関だった。ゼネコン大手数社に工区分けしたが、この手の工事では最終的な工事費が当初見積もりの2倍、3倍になることも多い。

 実際、工事の初期段階で早くも「追加工事費が必要だ」との話が各ゼネコンから出ていた。三井不動産がオリエンタルランドに送っていた同社の副社長は「工事のいったん全面停止とコストの精査」を宣言したが、この宣言は実質的に無視されて工事はそのまま続けられた。

 しかし副社長が行ったこの宣言は別の形でゼネコンへの警告となった。工区分けしていた為に一社当たりの受注額は300億円前後でしかも単発の工事だった。一方、三井不動産本体はビル、マンション他で年間、数百億円以上の工事をコンスタントに毎年発注していた。三井不動産が送った副社長の声は三井不動産の声と同等であり、ここで問題とされてしまうと三井不動産のビルやマンションの発注から外されかねない、現場レベルとは別に各社の本社レベルでゼネコンはこう感じたようだった。これもあって最終的な工事費は当初見積もりよりも若干多い程度で収まった。

 パラドキシカルな話だが、ここでも坪井氏と高橋氏が激しい敵対関係にあったことがプラスに働いていた。もし二人の関係が融和的であったらいろいろな口実により、工事費は泥沼のように膨らんでいただろう。二人の敵対的関係がコストの膨張を防ぎ、ディズニーランドは採算に乗ったのだった。

 

(追記2022.2.24-1)ディズニーランドの建設工事と並ぶ難関のはずの巨額の銀行借り入れは事前の予想よりもはるかに簡単に実現した。オリエンタルランドの高橋社長の銀行回りに千葉県の副知事が同行したことと、巨額の借り入れに三井不動産が債務保証する事から、日本興業銀行副頭取の菅谷隆介氏がその場でOKを出してくれたのだった。回った一行目はだめだったが二行目であっさりとけりがついたわけで、これにより事業に向けて大きく前進した。日本興業銀行ともう一行が幹事行となり、オールジャパンの銀行協調融資団ができ、ピーク時で1800億円とされる借入れ金は一切の滞りなく、提供された。ある銀行トップは坪井氏と高橋氏の対立により三井不動産がオリエンタルランドなりディズニーランド事業を厳しく監視しているので、経営が野放図になる事はないだろうという点から安心していられたとしていた。二人の対立がかえって銀行の安心材料となっていたということになるが、当事者同士にはそのような話は慰めにもならなかった。

 

(追記2022.2.24-2)坪井東氏のディズニーランド計画への反対を整理すると次のようになる。最大の違いは上場企業社長という坪井氏の責任感だ。高橋政友氏のオリエンタルランドは当時は非上場企業、責任が及ぶ範囲は極めて小さい。またディズニーランド事業は事業採算的にはばくちとも水商売とも言え、本計画のような巨額をはるのは行きすぎに思えた。それでもなお行うならもっと事業スキームに工夫を凝らすべきだろう、坪井氏の考えを要約すると以上のように思える。坪井氏はもともと埋め立て担当の部長・役員であり、浦安の埋め立て事業も千葉県との経緯なども十分承知していた。またアメリカを始めとする海外の不動産開発ビジネスやその際のリスク回避手法の様々もうっすらとながら通じていた。これと比較すると土地を保有するオリエンタルランドがそのままディズニーランドの建築費をまるまる負担しリスクを丸抱えで背負うという高橋氏の計画はあまりにも単純で幼稚すぎる事業スキームだった。しかしこのような話を互い冷静になって検討する前に、坪井氏と高橋氏の関係は感情的な対立になっていた。

 

(追記2022.2.24-2)後年、坪井東氏が社長としても円熟期に入った時、「社長とはいったいなんなんだ」ともらした事があった。彼のその思いを決定的にさせたのはヨーロッパ出張で住友不動産の安藤太郎社長と同行した時のようだった。出張日程の中の地中海クルーズの際、デッキの安藤太郎氏の元には一日三回、日本から「社長、いかがいたしましょうか」という国際電話が入り彼は部下へ指示を出していた。しかし坪井東氏の元には二週間の間、とうとう一回も電話がなかった。当時は景気がよく、何をしても確実に儲かったので三井不動産の人間は誰も社長に電話を入れる必要を感じなかったのだ。

 帰国した坪井氏は二週間も電話が一回もなかったことをいぶかしがり、しかもこれほどの期間、社長の自分が不在だったのに会社がなんの滞りもなく回っているという事実に愕然とした。坪井氏は社長就任当初から「部下へ大幅な権限移譲をする」と宣言していたのだが、この頃にはこれが実っていて社長がいなくてもほとんどの事はなんとでもなるようになっていたのだ。

 自分が社長として存在する事の意義を確認したいという欲求からであろうか、子会社で坪井氏がいなくては始めれない経営会議を開く時刻に坪井氏の姿が消え社内を探し回ったら、坪井氏は会議室でかくれんぼのようにしていて、扉が開かれて見つかった時に「ばー」という仕草をしたと同社の役員から聞かされた。坪井氏が議長となり数百人の株主が集まる一大セレモニーである三井不動産本体の定時株主総会ではひな壇に上がる役員さん達の集合時間になっても控室に現れず、運転手に連絡すると予定通りにビルの出入り口前で降ろしたとの事、何が起きたのかとみなが気をもむ中、総会開会時刻の僅か15分前に坪井氏は照れを隠すような表情をしながら姿を現わした。ビル内の喫茶店に雲隠れしていたらしかった。 

 会議室でのかくれんぼにしても株主総会前の雲隠れにしても、これらは坪井東氏の「社長とはいったいなんなんだ」という疑問への呻吟に思えた。

 

(追記2022.2.24-4)「大陸間弾道ミサイル」にはこのようなものもあった。千葉県の船橋市内のあるプロジェクトの開業パーティーで、坪井氏は冒頭に行った主催者としての挨拶で「いろいろな事を言っている人がいるが、千葉県生まれで千葉県を愛する私がディズニーランドに反対するわけがない」と述べた。高橋政友氏はこの言葉にいたく憤慨し、その直後のマスコミのインタビューで「坪井氏はディズニーランドへ強く反対した」と反論した。

 三井不動産は例年、正月に子会社他の主要な出資先を集めて賀正のパーティを開いていた。坪井氏は社長として毎回挨拶、加えて子会社等の最重要役員の中から毎年おひとりにに交代でご挨拶をお願いしていた。高橋政友氏にこの挨拶を依頼しようというのは事務方の間では毎回話にあがるのだが、どうにもお頼みに上がれる雰囲気ではなかった。加え、この賀正の会は人数を絞ってせいぜい数十人という規模の会だったのにお二人は挨拶をしない所か目を合わせようともしない。担当としては少しでも敵対関係の雪解けのきっかけにとの期待があったのだが、二人はグラスを持ちながら適度に距離を保って互いに近づくことがないように移動を図っているかの様にさえ見せた。 

 

(2022.2.25追記)オリエンタルランドの高橋政友氏は東大法学部卒、父君は台湾総督もされた方だ。政友氏は資産家の婿養子となり高橋姓となった。職をいくつか代わり、ある時、「建財」という不動産が主業の会社に在籍していたと聞く。同社は三井不動産と大変に縁が深い会社であり仕事の関係で江戸英雄氏と親しくなったという話と、江戸英雄氏が埋め立ての適任者を水戸高で旧知の岡崎英城代議士に相談したところ、いとこの高橋氏の紹介を受けたという話がある。いずれにせよこの時の江戸氏と高橋氏の出会いがディズニーランドが実現に至るキーとなった。

 埋め立て事業の最初の難関は漁業補償である。漁業者は埋め立てで漁場を無くし、時には工場排水に苦しむ事もあった。高橋氏は当時はオリエンタルランドの専務、浦安の漁業組合との交渉に要した多額の飲食費の請求書を束にして同社社長の川崎千春氏に(京成電鉄社長)へ渡すと川崎氏は直ちにハンコを押した。高橋氏はその後、組合幹部と向島の高級料亭で話し合いをするようになった。埋め立て事業に詳しい江戸英雄氏は漁業補償交渉で向島の料亭が使われている事に仰天、しかしこれを止める間もなく、高橋氏は組合幹部から補償の同意を取り付けたのだった。常識外のこの早業は高橋氏が向島で見せた誠意が通じたという面もあろうが、こんな高級料亭で何度も接待を受けていたのでは地元で何を言われるか分からないと組合幹部連は思ったものとも推測される。

 高橋氏は自分は埋め立て事業を任せられたのでありディズニーランド事業の具体はほかの人間に代わるものと思っていたのだが、諸般の情勢で自分がやる事になるのだと自覚したのはかなり後だったようだ。それを思わせるのが次のようなエピソードである。

 いよいよディズニーランドを建設するのかどうか、果たして採算は取れるのか、この話題でゼネコン、広告会社、旅行業界、評論家、文明史家その他を巻き込んだ甲論乙駁が繰り広げられていた。国をあげての大騒ぎの中、当事者会社の社長である高橋政友氏はなんとまだアメリカのディズニーランドに行った事がなかったのだった。とんでもない話である。オリエンタルランドに幹部として中途採用された人間がこれを知り、「世に知られるとえらい事になる」として高橋氏にただちに密かに見てくるように進言し、高橋氏は社内でも秘密裏にでかけ、この時に初めてディズニーランドの現物を見た。これはかなり後年になり知られたエピソードである。 

高橋氏は埋め立て事業の為に必要だったが会社には請求できない資金が嵩み、奥様がご自分の財産である書画骨董や一部の所有地(松濤だと聞く)まで処分して高橋氏にお金を渡していた。もっともこのお金は事業以外にも流れたとも聞くが仮にそれが事実であったとしても、そんな話以上に高橋氏と奥様は深く結ばれていたのだろう。ただしこの話は京成電鉄がオリエンタルランドを主導していた時代の話で詳細はよく知らない。三井不動産の江戸英雄氏はこの話をよくご存じだったがいつ頃知ったのかは分からない。高橋氏が持ち前の豪放磊落さ・気の強さを終生、保持し続ける事が出来たのも奥様の存在があったからだったわけで、この意味で高橋氏の奥様はディズニーランド実現の恩人でもいらっしゃる方だった。

 

(追記2022.3.1)江戸氏が丹澤氏の「埋め立て+遊園地」という話に後ろ向きだった最大の理由は、遊園地事業用地の60万坪というバカでかさにあった。これはゴルフ場3個分で程度で、このような遊園地は不可能だと考えた。ディズニーランドのゲストが楽しむ部分(オン・ステージ)が約10万坪だったと記憶する。昭和30年代前半、「遊園地用地が60万坪」というのは途方もない話だった。

 

(追記2022.3.6) 浦安地先約200万坪のうち60数万坪を遊園地用地とすることで千葉県からOKを引き出した朝日土地興業の丹澤善利氏について聞く所は次の通りだが、下記の時系列はかなり混乱しているかも知れない。丹澤氏は出征する兵隊に「マンキンタン」という下痢止めを売り成功、戦後は船橋地先での埋め立てを企画、完成した埋め立て地を株主に安く売ると約して千葉の富豪他から資金を調達、できた埋め立て地に「船橋ヘルスセンター」を作り大当たりした。同地では第二期の埋め立てを実施、再度千葉の富豪から出資を受けた。次に手掛けたのが浦安地先で、後にディズニーランドも含まれる部分だ。丹澤氏はここでも千葉の富豪他へ資金を求めようとしたが、富豪他は丹澤氏が自分たちに一向に土地を売ろうとせず追加の資金出資ばかりを求める事から不信を持ち、浦安地先の話には関わろうとしなかった。この為、丹澤氏は京成電鉄の川崎社長と三井不動産の江戸社長に出資を求めた。こうしてオリエンタルランドは朝日土地興業、京成電鉄、三井不動産の三社が株主としてスタートした。

 丹澤氏は多くの「利権」への参加を狙ったが、これらが「黒い霧」の追及で白日の下となった。武州鉄道事件、虎の門国有地払下げほか、怪しげな利権話の多くで彼の名が挙がり信用を失墜、株価は下落、資金に窮する様になった。同郷の政商・小佐野賢治氏に買い戻しを約して自社の新株を割り当て一時的に資金を得るも株価は一段と下落、時価よりも高い株価での買い戻しにより会社資産はますます搾り取られた。致命傷となったのは吹原産業の手形詐欺事件だと聞く。

 丹澤氏は自力再建を諦め、三井不動産の江戸氏に救済を委ねた。江戸氏は朝日土地興業を吸収合併する事で事態の収拾を図った。この時に吸収された資産の一つがオリエンタルランドの株である。京成電鉄と三井不動産の持ち株比率が等しくなるように調整、朝日土地興業主導となる筈だったオリエンタルランドは京成電鉄の川崎千春社長が主導する事とし川崎氏が同社の社長となった。埋め立ての実務の責任者としてスカウトされた高橋政友氏はオリエンタルランドの専務として迎えられ、辣腕を振るう事になる。 

 丹澤善利氏は「黒い霧問題」について相当踏み込んだ真相を知っていた筈だが、それを語る事はなかった。晩年は香港へ渡ったと聞くが、江戸氏は丹澤氏の今わの際で遺言を聞いたともされ真実はよく分からない。

 

(追記2022.3.7)三井不動産の江戸英雄氏は三井グループでも重鎮、ディズニーランド事業では三井不動産の社長・会長として一貫してこれを支援、幾つもの窮地からこの事業を救った。オリエンタルランドの高橋政友社長は三井不動産各所から苦い思いをした事を回顧して、主に坪井社長を念頭に「三井が」「三井が」と事あるごとに言うようになった時期があった。高橋氏の度重なるこの言い方に、江戸氏は堪忍袋の緒が切れ「ワシも三井だ」と言い出した。江戸氏が高橋氏に馬鹿者と𠮟りつけたのか穏便な注文で済ませたのかは不明だが、高橋氏は「三井が」という言い方は(外部に対しては)しなくなった。その後、朝日新聞に彼のビジネス回顧の話があった時には、「(三井の悪口ではなく)坪井社長の悪口を書く」と江戸氏の了解を取りに来た。この時に江戸氏は「君の事だから書くなと言っても書くだろう。しかしこれを最後にもう坪井君の悪口は二度と広言するな」と言い渡し、高橋氏は三井不動産についても社長の坪井氏についても、公的な場での批判は一切できなくなったのだった。

 江戸英雄は茨城出身、水戸高・東大法学部を経て三井合名会社へ入社、血盟団事件により本社ビル前で同社の専務理事である団琢磨氏が射殺された事にショックを受けた。戦後はGHQから財閥解体指令があり三井合名の解体にあたった。数回にわたる組織変更の末に三井合名は最終的には三井不動産へ吸収消滅となり、自身も三井不動産へ移った。その後、戦後の混乱に起因する問題に文字通り自分の命を危険に晒して対処した。霞が関ビルで世間をあっと言わせ、埋め立て、仲介、住宅地、マンション、ビル、別荘、ゴルフ場等も手掛け、オイルショック後に社長を坪井氏とし自分は会長となった。世話好きさは度を越していて小澤征爾氏は感謝として江戸氏の名を冠したコンサート開き、野中郁次郎氏は若き頃の世話の礼を言い損ねた為に未だにあちこちで江戸氏への感謝を述べないと気が済まない模様だ。「日本野鳥の会」はお金がないのに霞が関ビルに入居させてほしいと直訴、江戸氏はこれを快諾、この話は会社の思わぬ宣伝となった。 世話好きさの全貌は本人しか知らない。終生抜けなかった茨城訛りは誠実さも表し、江戸氏の「武器」にもなっていた。

 農業は趣味の域を超え、下落合の自宅の庭の全てに加えて車庫の上までも畑となり「この界隈では最大の百姓だ」と自慢、別荘がある軽井沢では畑を借り、黒塗りの車に運転手を待たせ野良仕事に励んだ。この趣味は社内で遺伝し江戸氏の次の社長となった坪井氏も園芸子会社の手を借りながら日曜園芸に励んでいた時期がある。最も激しく遺伝したある取締役は住んでいる郊外の高級住宅地で空き区画を三つも確保、季節が来ると収穫作業日程が手帳にあった。彼の作物の「交換価値」はすさまじく高く、ご近所さんに大根を持っていくとお礼として高級メロンが返ってくるとの事だった。彼は1990年代にオリエンタルランドの副社長として三井不動産から送り込まれた。

 

(追記2022.3.19-1)三井不動産の坪井東氏は千葉県の出身、両国高校・一橋大学を出て三井合名に入社する。戦後、三井を一時離れた後に江戸英雄氏を頼って出戻りのような形で三井不動産に入社、当初は花卉園芸の会社や富良野のアスパラガスの缶詰会社ほかを担当した。ある時、江戸氏は新規事業として埋め立ての勉強を指示した。そこへ千葉県の副知事が江戸氏の元へ来訪して埋め立て事業への協力を依頼、この時に江戸氏がOKと即答できたのはこの事前の勉強があったからこそだった。

 坪井氏はその後は埋め立て一筋となった。社長となり数年も経つと「名経営者」との評価を各所から得た。坪井社長の経営手法は「合理的」であり、その結果、当時の不動産会社としては珍しく、社内の各所で膨大な量の計算がされるようになった。パソコンはまだ世の中にはなく電卓の時代である。東京ディズニーランドに関しても「計算のうず」となった。

 東京ディズニーランドの採算計算では建設費他の初期投資と入園者数が最も重要だったが、他にも変数はいくらでもある。ほんの少し想定を変えると大赤字から巨額の黒字まで、大きく変わる。遊園地事業はばくち的、あるいは水商売的な事業であり合理的経営とは相いれないビジネスだった。一方、会長の江戸英雄氏は「坪井君は計算ばかりしている」とこぼしていた。霞が関ビルがそうだったように、このような新しい超巨大プロジェクトは思いもよらない物を生むというわけだ。

 それでもなお、坪井氏はディズニーランド事業なり高橋氏の進め方への反対の姿勢を崩さなかったのだった。

 

(追記2022.3.19-2)東京ディズニーランド事業ではどのようなリスク回避の方法がありえたのか、パリのユーロディズニー事業を参考として紹介する。事業の主要部分が組み立てられたのは1980年代後半で、日本とは違いこれは米ディズニー社の直轄事業だ。フェーズ・ワンでは「マジック・キングダム+6つの大型ホテル+多目的娯楽施設等」が建てられた。開業は1992年である。

 事業の中核となるユーロディズニー社だがこれは「株式会社」ではなく「合資会社」だった。合資会社とは無限責任を負い経営権を握る「無限責任出資者」と、経営参画権がない「有限責任出資者」からなる。当時、ミシュラン他数社がこの形態でパリ市場で上場していた。米ディズニー社は100%出資子会社をユーロディズニー社の無限責任出資者とする事で経営権を排他的に独占、さらに自身への無限責任連鎖を断ち切る事も図っているようだった。そして有限責任出資株のみを上場させた。

 驚くことに米ディズニー社はこの上場をパークのオープン前の「前評判だけ」の時に実施、当時のレートで1200億円を回収していた。「1200億円」というのは東京ディズニーランドの建築費とそれほどは変わらない額で、これをオープン前に回収していたのだ。

 さらに外部にファイナンス会社を設立、この会社にはフランス企業群が83%、米ディズニー社(親会社)17%を出資していた。ユーロディズニー社はマジックキングダムやホテル等の全ての建築物や構築物等をこのファイナンス会社へ売却した上でリースバックを受ける。ユーロディズニーはパークもホテルも「全て借り物」で運営している構造だった。このファイナンス会社への出資をユーロディズニー社ではなく米ディズニー社としているのは、リースバックする資産をユーロディズニー社で資産計上させられることを防ぐ為だろうと想像される。このスキームでユーロディズニー社は膨大な額の資産と負債をオフバランスにできた。これは上場申請時のB/Sを劇的に改善、株価他にも効いていただろう。また万が一、ユーロディズニーが失敗して破たんした時のリスク負担も、ファイナンス会社に融資した金融機関が負い、ディズニー社には及ばない様に見えた。

 数字はつかめなかったが、ユーロディズニーのフェーズ・ワンの事業費が全体で5000億円として、うち4000億円くらいについてはこのようなスキームの工夫によりディズニー社はリスク回避が出来ていたのではないかと思った。

オリエンタルランドなり高橋社長の「東京ディズニーランドの建築費等の全てを丸抱えするスキーム」が単純で幼稚だとするゆえんである。もっとも企業経営では「単純で幼稚」な事が長所となる事もある。かかわる人すべてにとって話が分かりやすく、目標の共有も容易だからだ。

 

(追記2022.3.19-3)東京ディズニーランドに関する基本契約書はカリフォルニアでのディズニー社と高橋政友社長以下のオリエンタルランド一行との数日間に渉る「大変な交渉」の末、締結に至った。

ところが何年か後に私が調べると高橋社長以下、これではまるで負けるに決まっているという下手な仕方で交渉をしていたように見えた。一般に契約交渉の各事項の中には些末な事項、テクニカルな事項、言葉の選択、といった物もたくさんある。アメリカでこの手の契約交渉をする場合はまず「チーム」を作る。このチームは「当事者会社、専門が異なる複数の弁護士、会計士他の専門家」で構成される。チーム内で事前に念入りに打ち合わせや議論を行った上で、交渉は「チーム対チーム」、場合によっては「10人対10人」といった規模で行う。どちらに転んでも大差ない事項はそれぞれのチームのその事項の専門家同士に交渉させ、結論だけを聞く。当事者本人達は本当に重要で肝心な部分についてだけ、温存した気力や体力を集中してぶつけるわけだ。「大変な交渉をした」という時点で、もう負けが決まっている。勝つ方は多くの場合、「悠々と勝っている」ものなのだ。

高橋社長はこの様な「チーム」を作らず、せいぜい通訳程度の同行で交渉に臨んだ様だった。これでは「竹やり隊」である。

 高橋社長が率いるオリエンタルランド社がカリフォルニアで締結した東京ディズニーランドの基本契約は重要な部分も含めて、どう見てもディズニー社側が有利すぎていた。三井不動産の坪井東社長はこの基本契約を「幕末以来の不平等条約」と批判したが、幕末以来かどうかはともかく、そう批判されても仕方がない契約内容だった。 

 このような(拙劣なプロセスによる)交渉の結果、東京ディズニーランドの基本契約がオリエンタルランド側に不要に不利、その分、ディズニー側に無駄に有利なものとなってしまった事は、高橋社長と坪井社長の対立がもたらした損失の中でも最大規模のものだろう。三井不動産はすでにアメリカで何件もの大型の不動産に関する契約交渉を当時の海外事業部の担当が経験、高橋社長が聞きにくれば交渉の要諦をいくらでも教えていた筈だ。三井不動産に対して敵対心ばかりを強く持ち、教えを乞いに行ける関係を築き損ね、その結果、戦前、あるいは昭和中期のメンタリティで最も重要な交渉に臨んでしまった。アメリカでの本気の交渉は、当事者同士がリラックスしている間も双方の弁護士がヒートアップしてやりあい、当事者である筈の自分は何の議論なのか全然分からない状態になる事がある。契約の条項によってはこれで良いという世界なのだ。

 

(追記2022.3.19-1)オリエンタルランドの高橋社長が「竹やり隊」を率いて「戦車」に挑んだ交渉によりディズニー社と基本契約にサインをした後、これはただちにカリフォルニアから三井不動産へ報告された。しかし三井不動産の坪井社長から「この契約は認めない」と高橋社長にとって予想もしていなかった返事があり、一同の現地での疲れはさらに増す事になった。しかしながらこれは明らかに高橋社長の自業自得であった。高橋氏の三井不動産に対する話の進め方は非常識の度が過ぎていたのだ。このような重大な契約は最終案の合意を固めた後にいったん日本へ持ち帰り、支配的大株主であり後にオリエンタルランドの超巨額の借金の連帯保証人になる三井不動産にこれが最終案だとして示して了承を取り付け、その後にアメリカに戻りディズニー社との正式な締結をすべきスジの話だ。商法を持ちだして高橋氏をつるし上げる事も可能だった。

基本契約を巡る高橋氏と坪井氏の対立は、互いに抜き差しならぬものに発展する恐れがあった。このどうしようもない膠着へと陥りかけない局面を救ったのは、またもや三井不動産の江戸会長であったとしか考えられない。江戸氏は高橋氏に対してはこのまま進めさせ、反対する坪井氏は黙らせたのだろうと想像する。

 こうして、東京ディズニーランド事業は本格的に歩みだした。ところがこのような経緯の為、基本契約は一部が不完全な状態のままとなった。契約中のある条項で「オリエンタルランドはこの条項への了解を三井不動産と京成電鉄から書面で取り付ける」とされていた。

 当時、三井不動産にはオリエンタルランドから渡されていた契約書案についてその後の交渉での変更を知らされておらず、また同社からの契約書案の訳文も変更前の契約書案からのもので、おまけに誤訳や不適切な訳が目立つ代物だった。

 そもそも「オリエンタルランドが当方の最終了解も得ずに(勝手に)結んだ基本契約で、三井不動産はこのような書面を出す必要はない」というスジ論、高橋氏のこれまでの進め方や各所での三井不動産批判の公言から生じた「なんだ、あいつは」という感情論、その他のもろもろによりこの書面の問題を下手に扱うと、三井不動産内部で積年のうっぷんが一挙に爆発しかねなかった。

 結局、この問題はこのまま放置しておく事とした。問題が最終的に解決したのはディズニーランドの開園から10年近くが経った時だ。オリエンタルランドの加賀見俊夫氏がホチキス止めされた2ページの紙切れを三井不動産の南川順一氏の元へ持参、担当部署は南川順一氏の指示で社長の坪井氏には上げずにこの紙切れへの社印の押印手続きを取り、加賀見氏に渡した。これこそが問題となった「書面」となり、東京ディズニーランドの基本契約はやっと全てが満たされる状態になった。

 この2ページの紙切れがある事で後のオリエンタルランドの新規上場が可能となり、同社はディズニーシーを実現する資金を自前で得る事が出来た。基本契約が不完全なままでは、同社は東京証券取引所の上場審査で通る訳がなかった。このホチキス止めされた2ページは後に「ディズニーシーを実現させた紙切れ」となったのだ。

 

(追記2022.3.19-2)先にユーロディズニーにおける巨大プロジェクトのリスク回避例をあげたが、これはあくまで参考例である。本論からは外れるが、ユーロディズニー実現の経緯を書いておきたい。

 米ディズニー社はディズニーの文化はアメリカ人のみに理解されると長らく思いこんでいたのだが、東京ディズニーランドの予想以上の成功でヨーロッパへの進出も考えるようになった。誘致へ立候補する所は多数あったが、候補地は最終的にフランスとスペインに絞られた。

 ディズニーランドを誘致できれば景気浮揚効果は非常に大きい。フランスとスペインは政府レベルの肝いりで様々な大型の優遇策を提示した。パリ市にはもう一つの狙いがあった。同市は過密解消の為に郊外に5つの衛星・新都市を計画していて、その中の一つのコアとしてディズニーランドをあてようと考えていた。

 この結果、フランス側が提示した各種で大型の優遇策(インセンティブ)は凄まじいものになった。「高速道路と首都鉄道の延伸」「TGVの枝線によるパーク入り口の新駅」「パーク内の商品売上への付加価値税の税率を通常の約3分の1」「1000億円超の5年間の優遇金利貸し付け」「不動産取得税と20年間の固定資産税の大幅減免」等である。ユーロディズニーがパークのオープン前に上場で来たのも、優遇策の一つだったのかも知れない。

 ちなみにあるディズニー社のある方はパリの方を選んだ理由について、ディズニーランドは寒いと客がこないだろうと思っていたら、東京は寒くても人がいっぱい来ていたので地中海の温暖さではなくパリを選んだと言っていた。

 ユーロディズニー計画はフェーズ・ワン、フェーズ・ツー、計画未定地の三段階に分かれていた。ここで説明した事業スキームはフェーズ・ワンのものだ。フェーズ・ツーについては米ディズニー社は当初は開発オプションを取得していた。フェーズ・ツーではMGMのテーマパークを核に予定し準備が着工寸前まで進められた。ところがいざ、フェーズ・ワンをオープンした所、予想外の不振さで、フェーズ・ツーの着工は凍結された。後に、時期を遅らせて着手している。その後、ユーロディズニーは若干の持ち直しをしたとは言え、計画前のディズニー社の期待に背くどころか、追加でキャッシュを注ぎ込む事態になっている。 

 一方、ユーロディズニーはヨーロッパで最大の遊園地でもあり、開園から約30年も経った。ディズニーのファンは国境を越えてヨーロッパ大陸全体に広がっているとの話も聞く。「リスク回避スキーム」で頭を絞るのは楽しい仕事ではあるのだが、やはり単純素朴にディズニーの世界観に浸ることの方もとても楽しいと感じる。